更年期亭シングル介護日乗 

アルツハイマー型認知症&網膜色素変性症(指定難病)で要介護1の父親と、頭はシッカリしているが病弱で要支援1の母親と3人暮らし。 介護の入口に立って途方に暮れつつ、トライ&エラーの日々。

認知症外来と長谷川式スケール

 地域の中核病院である某大学病院の精神神経科に電話すると、比較的すぐに予約が取れた。さっそく父を連れて行く。はじめに出てきたのは、初診のみ担当するという若い男の先生だった。

最初は「こんな頼りなそうな若いお兄ちゃんで大丈夫かな?」と心もとなく感じたが、患者(父)の尊厳を傷つけないよう細やかに気を使った言葉選びと態度には、さすがにプロだなと感心させられた。

問診や時計などを書かせるテストの後、いわゆる「長谷川式簡易知能評価スケール」の検査があった。父の得点は17点だった。このテストでは20点以下が認知症の疑いありとされている。

 

丁寧に40分ほど時間をかけて診察を終えると、医師は穏やかに「採血やCTスキャンなどの検査を受けてから帰ってください。結果は2週間後に」と言った。私は父と一緒に診察室を出てから、一瞬自分だけさっと部屋に戻って、「先生、父はどんな感じでしょうか」と聞いた。

 

「おそらくアルツハイマー型の初期から中期と思われます」

 

ああ、やはりと思った。予測していたためか、あまり動揺はなかった。家に帰るとすぐ図書館へ向かい、認知症に関する書籍を集めた。

 

ちなみに認知症診断の中でもっともポピュラーな長谷川式スケールを開発した認知症医療の第一人者の長谷川和夫氏も、近年自ら認知症になったことを発表している。

長谷川氏はあちこちで積極的に取材を受け、当事者として認知症理解について発信されている。中でも読売新聞に掲載された連載記事は非常に面白かったが、その最終回で氏はこう語っていた。

 

以前、講演会で、認知症になると死は怖くなくなるのですかと尋ねられました。正直、わかりません。でも、重い認知症になっても、自分がされたら嫌なことや、自分の存在が消滅してしまうのは恐ろしいという気持ちは残るのではないかと思います。

生きることは老いること。老いることは生きることで、死を迎えることでもあります。

(読売新聞・時代の証言者『ボク、認知症』第22回)

 

国の研究班の統計では、認知症の有病率は60代後半で3%だが、80代後半では40%程度に跳ね上がる。さらに95歳以上では80%になるというのだから、つまり認知症とは老いとほぼイコールなのではないか。とすれば、根本的にはこれにあらがうことはできない。進行を遅らせる薬も開発されているが、今の医学で完治することは不可能だ。

 

かつて一緒に暮らしていた祖父は80代の後半から認知症を発症し、自宅介護で96歳のときに天寿を全うした。そのときは父母がメインで介護し、私がサポートするという3対1の介護体制だった。だが、いまや2対1、いや、この後すぐに母が圧迫骨折でしばらく寝たきりになり、一時期は1対2のダブル介護状態になるのだが、それはまた後の話として――。

ともあれ、これから長い介護生活が始まるなと、2017年が開ける除夜の鐘を聞きながら覚悟を決めた。

 

それから丸2年。まだまだ介護の入口状態で、途方に暮れることは多い。「もう無理だ」と悲観的になる瞬間もないではない。だが今のところ基本的には、そう悪くない日々だと思っている。

父の不調の訴えや、独自のこだわり、夜中に起こされること、エンドレスで続く同じ質問、そういったものに神経を削られることはある。だが反対に、愛嬌があったり、素直だったり、意外と愛妻家だったりという父の意外な素顔が発見できる面白さもあるのだ。

家父長制が身に沁みついた古い日本の長男として、かつては支配的で身勝手な一面もある父だった。今も身勝手と言えば相当に身勝手だが、それはずっと正直な身勝手さで、昔のそれよりもある意味で好感が持てる。

 たとえて言うなら、目の前に突然、小学校低学年の男の子があらわれたような感じなのだ。男の子自身も、自分がなぜここに出現したのかわからずに戸惑っているような、一種の初々しさ、いじらしさがある。ただ、この少年はこれから成長するのではなく、ときを逆行していくのだ。